週刊文春(2006年10月19日号)の記事を紹介(保存)しておきます。
ソースは以下のブログです。Let’sBlow! 毒吐き@てっく安倍首相・創価問題他
池田大作に膝を屈した安倍と小泉
9月22日、番記者にウソをついて創価学会のドンに面会した安倍首相。訪中では手土産に「皇室外遊」も。「闘う政治家」がなぜ「媚びる政治家」に── 九月二十二日、自民党総裁に就任したばかりの安倍晋三官房長官(当時)は朝から落ち着きなく、頻りに目をしぼたたかせていた。 午前十一時から「参院のドン」青木幹雄党参院議員会長との会談が入っていたが、これが原因でナーバスになっていたわけではない。 党本部での会談を早々に終えると、安倍氏は官邸に戻り番記者たちとの退任前の記念撮影に応じた。夜討ち朝駆けの毎日に明け暮れた記者たちに労いの言葉をかけつつ、官邸に隣接する官房長官公邸に戻るようなフリをして、安倍氏はその場を立ち去った。 だが、安倍氏の乗り込んだ車が向かった先は公邸ではなく、創価学会本部をはじめ関連施設の立ち並ぶ新宿区信濃町だった―――。
「各社とも安倍氏を見失ったときは大騒ぎで、入閣候補者に会いに行ったとの臆測も流れました。結局、安倍氏側は、公邸にいたが所在を示すランプが消えていただけと説明しました」
(政治部デスク)
牛後二時前、安倍氏を乗せた車は創価学会本部から少し離れた関連施設に到着した。安倍氏が部屋に入ると、そこにはにこやかな表情で歓待する池田大作名誉会長の姿があった。
会談前日、安倍氏は創価学会の秋谷栄之助会長に自ら電話していた。総裁就任の挨拶に訪れる旨を伝えると同時に、「できれば池田名誉会長にお会いしたい」と依頼していたのだ。
だが、池田名誉会長は政治利用への警戒心から、少なくとも最近十数年間は政治家と面談していない。
では、なぜ総理就任直前の安倍氏とは会ったのだろうか。「実は安倍氏の父、晋太郎元外相は池田氏と非常に懇意だったのです。選挙で学会から支援も受けていました。そうした縁から安倍氏は父の秘書時代から秋谷会長と面識があるのです。また、祖父の岸信介元首相も二代目の会長である戸田城聖氏と親しかったので、学会とは三代にわたる付き合いなのです」(創価学会に詳しいフリージャーナリスト)
安倍氏と池田氏は、岸元首相、安倍元外相との思い出話に花を咲かせ、「あっという間に二時間近くが過ぎた」(安倍氏周辺)という。当然のことながら、安倍・池田会談は双方合意のもと「なかったこと」にされた。安倍氏にとって一宗教団体のトップとの会談が公になれば、総理就任早々に世論の批判を浴びることは確実だったからだ。
それから約一週間後の二十八日、やはり関連施設で小泉純一郎前首相が池田名誉会長と向き合っていた。「在任中には公明党さんには本当にいろいろお世話になりました」 先の衆院選では二百九十六議席と大勝した小泉・自民党だったが、過去には学会の協力なしには危うい場面もあった。退任後の総理自らが池田氏のもとを訪れ、感謝の辞を述べるという異例の事態が、公称八百万世帯を誇る創価学会の威力を物語っている。
公明党と創価学会とは、建前上は政党と支持団体という位置づけだが、小泉前首相の言葉は両者が実質的に一体である実態を表わしているともいえよう。そして総裁就任の挨拶に訪れた安倍氏の狙いが、十月二十二日に投票日を迎える衆院統一補欠選拳での協力にあることも、小泉前首相の言葉から明白である。
だが、かつて安倍首相は創価学会を「戦闘集団」と批判していた過去がある。安倍氏が一年生議員のころ細川政権によって自民党は野党に転落していた。「(註・細川政権という)旧連立が、創価学会というきわめて強力な戦闘集団(とりわけ選挙においては)と手を組んだ、異常で強権的な政権であった(中略)そうすると、この政権のあり方には大変大きな問題と危険性が存在してくる」(『「保守革命」宣言』栗本慎一郎氏他との共著) また、九四年十一月に聞かれた創価学会に批判的な「四月会」の集会に参加して、こう発言している。「父の代から創価学会に支援していただいた。ところが、『憲法二十条を考える会』の集まりに参加した翌日、公明党の地元幹部から電話があり、『考え直さないといけない』 と言われた。恐ろしい団体と思った」
ところが、首相就任後に参加した九月三十日の公明党大会で安倍首相は、「連立政権の基盤強化が日本のためだ」と力説した。「プレない政治家」だったはずの安倍氏は、首相になって「変節」したようだ。
安倍首相が訪中する前日の十月七日、創価大学で池田名誉会長への二百番目の名誉学術称号授与式が行なわれた。「久しぶりに姿を現した池田氏は、周恩来元総理との交友に触れながら『日中の平和友好は絶対に崩れない』と語り、今後は環境問題などで日中が協力すべきという方針を打ち出しました。そこで、『安ちゃんにもよく言っておいた』と発言したそうです」(前出・フリージャーナリスト)
九月二十二日に行なわれた安倍氏との会談の内容をさりげなく示唆したのだ。
(創価学会広報室は、「安倍氏と会談した事実はございません。小泉前首相からは九月二十八日午後、聖教新聞社本社で、退任の挨拶を受けました」と回答した)
池田氏が言及した日中関係においても安倍氏の「変節」は著しい。一年半にわたって途絶えていた日中首脳会談が八日に行なわれ、メディアは概ね好意的に報じたが、訪中するまでの交渉経緯を再検証してみよう。
「今年初め、中国政府はポスト小泉政権で関係修復する路線に転じました。これを受けて中川秀直氏と鄭必堅氏(新日中友好二十一世紀委員会中国側座長)のルートをはじめとして、複数のチャンネルで首脳会談再開の道を探っていたのです。途中、紆余曲折を経て、日中双方が首脳会談に向けて動きだしたのは、外相会談に合意した五月ごろ。ここから谷内正太郎外務次官が安倍新首相の訪中というシナリオを描いていったのです」(外務省担当記者)
八月十五日を過ぎると、堰を切ったように双方の動きが加速し、交渉の最終局面は、九月二十三日から二十六日まで行なわれた次官級の総合政策対話だった。
「ここで谷内次官と戴乗国外務筆頭次官がギリギリの折衝を重ねました。結局、総合対話の席では合意に至らなかったのですが、二十七日に帰国した戴次官が二十八日に極秘来日し、十月八日という日程だけが決定したのです」(同前)
日程は決まったものの、やはり首相の靖国参拝が懸案事項として残された。首脳会談でも「行くか行かないか言及しない」と言い続けた安倍首相だが、日中外交筋はこう明言する。
「在任中は参拝しないものと中国側は認識しています。行くか行かないか明言しないというのは国内右派へのポーズで、実際はもう行けないんです」
中国側から縛りをかけられたのは、靖国参拝だけにとどまらない。
「以前から中国側は、安倍氏に会談実現までのハードルを提示していました。一つは安倍氏の持論である『政経分離論』を修正すること、一つは、植民地支配と侵略でアジア諸国に多大な損害と苦痛を与えたとの認識を示した九五年の『村山談話』を踏襲することだったのです」(外信部デスク)
「政経分離論」については八月三日の「東京・北京フォーラム」での発言で既に修正している。
「安倍氏は、『日中関係は最も重要な二国間関係だ』と打ち出し、それまでの持論を覆して、『政治と経済の二つの車輪が稼動し、日中開係を高める』と明言した。この会合では安倍氏が王毅駐日大使と握手したことが注目され、中川幹事長も『これが安倍さんのイニシアチブの始まり』と説明している」(政治部記者)
フォーラムの翌日には、安倍氏が四月に靖国参拝していたことが判明。
「第一報はNHKですが、情報源は安倍氏自身と言われています。このタイミングから、王毅氏と会ったときに、しばらくは参拝しないで済むこと、公には参拝するしないを明言しないことを、安倍氏が事前に伝えていたとみられます」(同前)
「村山談話」については、十月二日の衆院本会議で踏襲すると明言した。だが、安倍氏は九五年の国会決議を欠席しているだけでなく、過去のインタビューで、「あれは謝罪決議でしたが、大変みっともない結果でした」とも語っているのだ。
「安倍氏は十月上旬までに日中首脳会談を実現させるよう谷内次官に指示し、全権を委任したんです。つまり「訪中ありき」だったため、中国側の要求にべ夕おりしてしまったのです」
(前出・外信部デスク)
その上、訪中に際して中国側への「手土産」まで用意したというのだ。
「実は、皇太子殿下あるいは秋篠宮殿下の訪中を実現させるという一文が共同プレス文書に盛り込まれる予定だったんです。時期は来年五月に温家宝首相が来日した後。皇族の訪中を受けて、胡錦涛主席は十月の党大会後に来日する予定です」(外務省関係者。外務省報道課は「そのような事実はない」と否定)
「願う政治家」を標傍していた安倍氏が、「媚びる政治家」になってまで訪中にこだわった理由は何か。「首相就任早々に迎える衆院統一補選で勝つためでしょう。小泉政権で悪化した日中、日韓関係を修復できない安倍首相の歴史認識を追及しようとしていた野党の戦略を潰す作戦です」(前出・政治部デスク)
ノンフィクション作家の上坂冬子氏が語る。
「安倍首相は高い支持率がどういうところで成り立っているのか、もう少し自覚していただきたい。これでは『美しい国』ではなく『無難な国』じゃありませんか」

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